2013年4月14日日曜日

25)文法用語について

文法用語について時折断りな専ら私の好みに基いた、通例とは違う言い方に変更します。(例)カ変(カ行変格活用動詞)、サ変(サ行変格活用動詞)等=カ行不規則動詞、サ行不規則動詞等。=カ不規、サ不規等。
  
ブログのタイトル部分をクリックするとコメントフォームが現れます。是非コメントをお寄せ下さい。   
  

2013年4月10日水曜日

24)ご挨拶

内容はいちいち面倒な事ばかりをくどくど書いております。あくびの一つや二つ出ることは請け合います。こんな事ばかりを考え始めて五十余年経ってしまいました。私は今やそう言う歳になっております。狂気かもしれないもの(否、狂気でしょうとも!)を育むとは正直辛い時もありましたが、漸くこの度、小さい規模ながら纏めを、ブログツールを使って、致しました。眼目は日本語表記の中の漢語に対する過重、且つ偏重な扱いを出来るだけ排除し、和語=大和言葉の自立的、正当な復権を目指すことにあります。また、重要な概念は漢字で書いとけば済むと言う様な、或いは漢字が如何にも尤もらしい概念を表すかの様な根拠の薄い安易な文字使用を反省し、改めたい事もあります。また、外国語からの借用を簡素化し、造語の安易な乱造乱発を抑制し、制御し易くする事も若干視野にあります。これで何もかも目的を同時に満足させる事が出来る訳ではありません。私の期待値が過剰になってるだけかも知れません。これで日本語の四〜五百年分の夢を見る事が出来ると思っているのです。明治以来百余十年の軛(くびき)から解放されることを願っております。
漢語は漢字仮名混り文の中では一度習得すればと言う事を前提とすれば読書スピードはかなり早くはなるが、書記においては読書スピードよりは遥かに劣る。また、タイプライターの発達を十分に行なえなかったと言う事実がある。また、安易な造語知識の下で、数多くの同音異義語が作られた経緯があり日本語に複雑さを加えた。言語、国語は無用な混乱を避けるために適度な登録型の管理が必要と思われますが、人の思想にまで干渉することは規制しなければなりませんが、登録型にすれば権力の干渉を排除する方法として認められると考えます。

明治維新が唐突にここで出て来ましたが、私の思うところ、明治維新は江戸時代まで日本がそれなりに蓄積して来た文化、思想を根こそぎと言って良いほどに精算したと思っています。文化とか思想は蓄積、厚みがものを言うところもあります。その根っこも全て引き抜いて、それまで育っていたものを枯らし尽くしたと言っても良いと思います。明治維新、明治時代と言うのは江戸時代を腰を落ち付けて振り返るゆとりも無く西欧化へ突き進んでしまった拙速な時代だったと、極論的ながら総括します。

さて、問題はこのアルファベットを誰が使うんだと言う事になります。ここがたった一人で、狂気じみて育んで来ただけの自己満足作業の弱い所でもあります。誰も見向きもしなければ自己満足のゴミ屑でしかありません。私は「これを使って下さい!」とは言いません。精々「メモ書きにでも使えるならどうぞ!」ぐらいの気持ちです。プライベートな使用をお勧めします。実際便利な筈です。隣から覗き込まれても盗み見は簡単に出来ませんよ!何が書いてあるか絶対に解りません。まるで、外国語の様に見えます。
「え〜い!こうなったら生きてる人間には用はね〜いやい!未来の子供達に、未来の日本人(血縁であろうと無かろうと=移住者も含めて)に残してやろうじゃないですか!」
私は日本語の欧米化を望んでるのだろうかと思いますが、否、、逆なのです。単に翻訳文化が嫌なだけです。翻訳して解ったつもりになってる事が嫌なんだと思います。明治以来の伝統が兎に角嫌いです。どちらかと言えば江戸時代の文化に想いを馳せております。木+竹であろうと欧米文化を直接知って理解すべきところは理解しておく事の方に価値があると考えてしまうのです。 私の考えるもう一つのポイントは低コストな知的集約です。翻訳家に稼がせるコスト分を出来るだけ削減して、否、冗談ですが、学習しやすい日本語を目指すべきだと思うのです。また、日本語の中に混淆を起こしておきたいのだと思います。かつて英語が経験した様に。日本語をもっと活性化させたいのだと思います。

以下、過去ログでご覧下さい。
  
ブログのタイトル部分をクリックするとコメントフォームが現れます。是非コメントをお寄せ下さい。   
  

2013年4月9日火曜日

23)書記論は戦略的発想なのなのです!

私は右翼ではないし、右に偏った解決手法に批判的な人間です。しかし、どうしても日本語話者の不幸な現状を大変憂いてる者でもあります。日本語は良くも悪くも、幸か不幸か私が使用している言語です。この言語の書記法に具体的に変革的提言をしようと考えているのです。これは日本の国の運命云々と言うより日本語話者がと言った方が適切なのですが、この人間集団の最低4〜500年先或いはもっと先迄の戦略を考えられる様にしたいと思っています。今生きてる人間の事を考えてもしようがありません。何故なら、現状に何の不満も不自由も感じず、従って何の変革の欲求も持たない人間達に何の提案を持ちかける意味もありません。しかし、未来の日本語話者にとっては重要な準備となる事を信じていますので、現在覚醒の出来る僅かな人間が出来ることは用意しておこうではないかと言うことです。ノアの方舟はほんの僅かの覚醒した人間が企画した事だったと言えばお解りでしょうか?
日本と言う国と日本語話者を切り分けて考える事は現実的な思考方法ではないかも知れません。しかし、日本語話者は現在は日本と言う国を選択している訳です。どのような国家を選ぶかも主権者たる日本語話者が選択することにかかっています。日本の国が上意下達で日本語を強制している訳ではないことははっきりしている事です。そうならば日本語話者が日本語を改善しようとする権利も自然過程として持っていると言えないでしょうか?
>

22)日本語を軽量化すると言う発想

私がこのような提言をするのには、日本語を軽量化したいと言う意味があります。日本語の姿を簡素にし、その上で英知の流入を図り易くする目的があります。何を言っているかと言えば、現状の書記法があまりにも複雑を極めていてその習得に膨大なコストを掛けている事の不健全さを感じるのです。言語習得のコストと言っても目に見えないコストであるため、身に染みた意識も持てないのではないかと思います。言語の書記法と言う社会的共有物=インフラについてはコストの測り方は大変難しいのですが、学校教育の中に組み入れられたメニューを日本人は二十年近く掛ける訳ですから、年数的なコストは莫大と言えます。また、実際には二十年近くの習得時間を終了してもなお現実社会に出ても難読の文字や表現は残っていて常に不勉強を恥続けなければならない状況が続くのです。文字の習得と知識の習得とは区別しておかなくてはならないと思います。知識の獲得は幾つになっても続くものですが、文字の習得は早く終えておきたいものではないかと思うのです。日本語が我々日本人のものに十分なりきっているのだろうかと疑わざるを得ません。この表記技術の重さは日本人にとって負担になってる筈なのに、これをどうする事も出来ないでいる為、改める事には手も足も出ないでいるし、誰も何とかしようと言い出せない状況です。また、この表記技術の複雑さは外国の研究者レベルの好奇心の対象にはなっていても、これから日本にとって必要な一般労働者レベルにとって負担の大き過ぎるものである事は目に見えています。もう既にそうなっているのではないでしょうか。一般の人にとって二十年近くのハンディキャップを数ヶ月、数年で埋める事は殆んど絶望的であると言えます。現在の外国人に日本語を教えるプログラムは、丸飲ませ教育になっていて何の文法的背景説明もなく押し付けているのが現実ではないでしょうか。外国との単なる比較をしているのではありません。日本が一体どのようになって行くのかと云う事を考えているのです。
明治維新前後に多くの知性、知識人が気がついた事は日本語はローマ字を使わなければ立ち行かないだろうと言う事でした。気がついた人は多かったのですが、当然ながら障害も多くありましたので、其々の方式を立てて運動の旗を振ったのでした。お馴染みの訓令式、日本式、ヘボン式等の名前が思い浮かべる事が出来ると思います。その後、その多くは学校教育に結実し実施されたのですが、その内容はまだ五十音表の方式を提出するだけに留まるものが多く、五十音表の習得のみで総ての表現が可能だろうと云う理解に留まっていたのでした。そして、同音異義語に対しての対応は、精々殆んど言い換えの奨励をするだけに留まっていたのが実際に出来た事でした。言い換えは書き手の選択を制限し、表現の自由さを保証したものでは決して無いので、実際にローマ字の可能性を狭めるものでしかありませんでした。仮に何がしかの文章をローマ字で書けたとしてもギクシャクした不自然な文章にしか書けないということになったわけです。外国人がギクシャクした文章を書くのはご愛嬌で済ませられても、日本人どうしではそうも行きません。日本人と言いましたが日本語話者と言い直します。日本には既に多くの生得的日本語話者が存在してます。

2013年4月7日日曜日

21)これ迄の ローマ字運動は何をして来たのか?

日本語をアルファベットで書く場合に、直面する問題がありました。と言っても過去形ではなく現在の問題なのですが、日本語には多くの同音異義語が存在し実際問題としてそれらを書き分けておかなければ用をなさないという事です。過去のローマ字運動がその問題に気がついて対処したのかは私は十分把握していません。特に調べた訳ではありません。ざっと見る限りでは、そう言う痕跡は見当たりませんでした。しかし、日本語にある同音異義語を峻別する方法が無ければローマ字運動は成り立たないと言っても良いくらいです。同音異義語は漢語に多いとは言え和語にも沢山あります。和語には音便と言う現象もありますから、これをシッカリ書けなければローマ字の寿命が尽きるのは一気に加速します。逆にそう言う歴史だったのでは無かったでしょうか?私はこの問題をクリアしてこそのローマ字運動ではないかと思うのです。ここから先は問題解決のアイディアを考えると言う事になります。和語の音便以外に、漢語の同音にもアイディアが必要です。他にも我々にとって思わぬ同音異義語がかくれているものです。それは時間が明らかにしてくれると思いますが、出来るだけ漏れが少ないように予め組織的に考えておく必要があると思います。それが私が少しでも解決できればと考え試行錯誤してみたわけです。ところが、私にはこれ迄の先人による運動のあり方が五十音表の作成にのみ注視するのみで、日本語の現状にあまり眼を向けようとしていないと映ったのです。現状と言っても既に日本語に古くから定着している用法も多く存在しているものもありながらです。
さて、アイディアを考えるに当たり、当てずっぽうには出来ないので、前提にしなければならない事があると思います。
①先ず日本語文法を教科書文法でも良いから利用すると言う事。
②古語からの変遷を利用する事。古語からの足跡を反映させる事。
③アルファベット文字の範囲で収められる事。
④アルファベット文字の諸外国語での使用例も参考にしながらも、日本語独自のルールを大胆に提起する事。
⑤以上の前提を踏まえながら、書き手の考慮する部分を出来るだけ軽微にして、スペルを安定させる事。(これを維持する意味は、言語にとって流通性の為には欠かせない方法と考えるからです。)
等に留意したいと思います。
タイトルから離れてしまいましたが、これ迄のローマ字運動が出来ていた事は精々五十音表を作成し音を写す事だけだったと言うのは言い過ぎでしょうか。書かれたローマ字を冷や汗流しながら、一字一字たどたどしく読んでいた小学校の授業は本当に辛い思い出しかありません。英語の方がもっとスラスラ読めていたのが、不思議でした。/続く